「異端」の大統領に賭けるフィリピン:日経センター

2016/05/27

研究主幹の泉氏(日経新聞初代マニラ支局長)執筆

 

 日本経済研究センター(JCER)のホームページ(http://www.jcer.or.jp/index.html)に、5月25日のJCERトピックスとして、研究主幹の泉 宣道氏による『「異端」の大統領に賭けるフィリピン』が掲載されている。これは泉氏の連続コラム「ChinAsia 中国・アジア」の最新号である。その内容は次のとおりである(以下、ほぼ原文のまま)。



 『東南アジアで好調な経済成長を続けている人口1億のフィリピンで6月30日、新大統領が就任する。ロドリゴ・ドゥテルテ(Rodrigo Duterte)氏、71歳。過激な物言いで「フィリピンのトランプ」の異名をとるアウトサイダー的な国家元首の登場は同国の経済の行方を左右するだけでなく、中国との対峙で緊迫する南シナ海問題など東南アジアの安全保障体制にも影響を及ぼす。今年は日本とフィリピンの国交正常化60周年の節目でもある。フィリピンにとって最大の貿易相手であり、投資国でもある日本が今後、「ドゥテルテ大統領」にどう向き合うかは日米関係、日中関係にも波紋を広げよう。

ドゥテルテ氏は「トランプ現象」で当選
 5月9日投開票のフィリピン大統領選挙で圧勝したのは、国際社会では無名だった南部ミンダナオ島のダバオ市長、ドゥテルテ氏だった。生い立ちは1945年3月28日、中部レイテ島生まれ、1948年には両親とともにミンダナオ島に移住した。父親はダバオ州(当時)の州知事、母親は教師だった。

 退学するなど曲折を経て1968年にライシーアム・オブ・ザ・フィリピン大学(LPU)を卒業。別の大学でも法律を勉強し、1972年に難関の司法試験に合格したとされる。ダバオ地検の検事として経験を積み、地方政界入り、ダバオの副市長から1988年に市長となった。その後、下院議員(1期3年)も務めたが、通算20年以上、ダバオ市長として君臨してきた。

 フィリピンでは日常、互いに愛称(ニックネーム)で呼び合う。大統領といえども例外ではない。現在のベニグノ・アキノ3世大統領の愛称はノイノイ(Noynoy)である。彼の両親(故人)の場合、母親であるコラソン・アキノ元大統領の愛称はコリー(Cory)、父親でマルコス政権時代に暗殺されたベニグノ・アキノ元上院議員の愛称はニノイ(Ninoy)だった。

 ドゥテルテ氏の愛称はロディ(Rody)。母親からもそう呼ばれていたという。だが、ダバオ市長になってからのニックネームはフィリピン版「ダーティハリー」。自分こそが正義だと信じ、型破りに悪と戦うクリント・イーストウッドが主人公を演じる米国の刑事映画が由来である。

 ドゥテルテ氏は「犯罪者は皆殺しだ」などと公言し、犯罪が多く国内でも治安が悪いといわれたダバオを強権的な手法を使って劇的に改善した。自前の「暗殺団」を組織して麻薬密売人らを殺害したとの疑惑もある。ドゥテルテ氏自身、タクシーの運転手に扮して夜間、市内を巡回していたとの伝説が地元では語られている。

 暴言や放言、そして発言が二転三転することは枚挙にいとまがない。大統領選出馬を表明した演説で、ローマ・カトリック教会のフランシスコ法王が2015年にマニラを訪問した際に交通が大渋滞になったことに触れ「こう言ってやりたかった。『売春婦の息子である法王よ、自分の国に帰れ、二度とこの国に来るな』」と述べた。女性や障害者を蔑視する発言も連発した。米大統領選の共和党候補指名が確実視されている不動産王のドナルド・トランプ氏(69)の過激な発言になぞらえて「フィリピンのトランプ」とも呼ばれる所以だ。

 アジア最大のキリスト教国で、いわゆる“トランプ現象”が起きた要因としては、「貧富の差」の拡大、治安悪化や首都マニラでの異様な交通渋滞などが挙げられている。大衆の怒りや不満、支配階層への反発などを背景に、「異端」ともいえるドゥテルテ氏の言動がインターネットを通じて旋風のように拡散し、国のリーダーへと一気に押し上げた。

親日的ながら対中融和路線にも含み
 
フィリピンの歴史は試練の連続だった。カソリック教徒が人口の8割以上と圧倒的に多いが、最初に伝わったのはイスラム教。14世紀後半から南部のミンダナオ島などを中心に広がり、16世紀後半には北部ルソン島のマニラの一部にもイスラム社会が成立していた。

 16世紀後半から300年余りにわたったスペインの植民地時代にカトリックが定着した。その後、米西戦争を経て1898年からは米国領となり、1940年代には旧日本軍に一時占領されたが、戦後もカトリック教会が大学、病院、ラジオ局、出版社などを支配してきた。憲法では「政教分離」をうたっているものの、国政に関与してきたのも事実だ。

 今年は1986年2月の「民衆革命」から30周年――。当時、カトリック教会の頂点に立つハイメ・シン枢機卿が決定的な役割を果たした。ラジオなどを通じて反マルコス大統領の姿勢を打ち出し、マルコス氏は米国への亡命を余儀なくされ、敬虔なカソリック教徒でもある「コリー」ことコラソン・アキノ夫人が大統領に就任したのである。シン枢機卿は2001年にはエストラダ大統領の腐敗問題の一掃を国民に訴えて退陣に追い込み、アロヨ大統領誕生の立役者となった。

 そのシン枢機卿は2005年6月21日、多臓器不全のため76歳で天に召された。キングメーカーとも呼ばれた枢機卿の不在が象徴するように、カトリック教会の政治への影響力も相対的に弱まってきた。今回の大統領選では投票直前の5月5日、プロテスタント系宗教団体「イグレシア・ニ・クリスト」(INC)がドゥテルテ氏支持を正式に発表した。INCの信者は2百万人とも3百万人ともいわれ、組織票を持つことで知られる。

 INCは過去の大統領選でも1998年以降、エストラダ、アロヨ、アキノ各氏を支持、全員が当選を果たした。同じキリスト教でも国内ではカトリック系に比べ少数派のプロテスタント系の宗教団体が勝敗のキャスティングボートを握る構図にもなっている。

 ドゥテルテ氏自身はカソリックを信仰しているとされるが、言行からはとても敬虔なクリスチャンとは言えまい。それでも大統領選を制することができたのは、有権者の多くが伝統的な支配階層ではない非主流のカリスマ政治家に賭けてみようとしたからではないか。

 フィリピンの経済界では旧来のスペイン系の「アヤラ財閥」などより、「シー財閥」など中華系財閥の台頭が著しい。フィリピンの民族はマレー系が主体とされるが、この数百年にわたってスペイン人に加え、中国人との混血も進んできた。こうした中で中華系財閥は金融、電力、航空、商業施設経営といった主要ビジネスに加え、テレビ局などメディアにも進出している。

 コラソン・アキノ元大統領は中華系「コファンコ財閥」の出身で、客家系の中国の血を引いていた。実はシン枢機卿も父親は中国人、母親はフィリピン人で中華系ともいえる。フィリピンの中華系社会は内部で対立もあり、決して一枚岩とはいえないが、財閥を中心に経済的な影響力が急速に高まっているのは事実で、今や支配階層の一部を構成している。

 こうしたフィリピン社会の変容の中で新大統領に就くドゥテルテ氏もいわば中華系である。「祖父は中国人だから、中国とは戦争はしない」と公言してはばからない。

 ドゥテルテ氏はマニラ、セブに次ぐフィリピン第3の都市ダバオでは治安改善などの目に見える実績を上げた。しかし、大統領としての手腕は未知数だ。とりわけアキノ現政権の経済・外交政策をどう引き継ぐかが焦点になる。現政権では国内総生産(GDP)の実質経済成長率が年平均6%を超えていた。外資も評価するアキノ政権の経済政策を継承するのは当然だ。

 問題は外交政策である。米中が鋭く対立する南シナ海で、フィリピンもスカボロー礁(中国名・黄岩島)の領有権をめぐって中国と対峙している。アキノ現政権は米国との同盟関係を重視し、中国には厳しい態度を取ってきたが、この路線を維持するのか。フィリピン社会では冗談交じりの発言がむしろ好まれるが、外交の世界では通用しないこともドゥテルテ氏は肝に銘ずべきだろう。

 「日本との関係を重視しており、日本の大使と最初に会うことにした」。ドゥテルテ氏は5月16日、ダバオ市内で日本の石川和秀・駐フィリピン大使と会談し、その後に中国の趙鑑華大使と会った。

 確かに日本とフィリピンとの関係は現在、基本的に良好である。だが、両国関係を健全に発展させていくには、先の大戦でフィリピンを舞台に日米が激しい戦闘を続け、巻き込まれたフィリピン人100万人以上が犠牲になった歴史を忘れてはならない。1942年4月、ルソン島バターン半島を攻略した旧日本軍が米軍やフィリピン軍の捕虜約7万人を炎天下、収容所まで約100キロメートル歩かせ、多くの死者を出した「バターン死の行進」事件は米国でもまだ風化していない。

 天皇皇后両陛下が今年2016年1月26~30日にフィリピンをご訪問され、戦争で亡くなった人々を慰霊し、平和を祈念されたことは記憶に新しい。

 主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)出席のため来日するオバマ米大統領は5月27日、被爆地、広島を訪問することになった。その際、「バターン死の行進」の生存者で元米兵捕虜のダニエル・クローリーさん(94)も立ち会う方向で調整が進んでいる。被爆者を含め悲惨な戦争の被害者も同席する「歴史的な訪問」になるだろう。』

 なお泉氏は。1977年日本経済新聞社入社、 1989年にマニラ支局初代支局長、1991年にフィリピン外国特派員協会(FOCAP)会長、1996年に北京支局長、1998年に初代中国総局長に就任している。その後、日経新聞東京本社の要職を経て、2010年に日本経済研究センター常務理事・事務局長、2015年に日本経済研究センター研究主幹(現職)に就任した(日本経済研究センターのホームページより)。